合気道の話 その1

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(今回の記事は、23年ほど(四段)合気道をやってきた自分の私見ですので悪しからず。ご了承ください)

剣(拳)もやる気も抜いてしまえれば最高ですね」

これは先日、ある方とお話していた中で、自分から出た言葉なのですが、妙に自然にスルっと出てきたので、少し分析することにしました。

 

合気道界随一の有名人、塩田剛三先生は「合気道の最高の技とはなんでしょうか。それは、相手の敵愾心を放棄させ、仲良くなってしまうことです」と述べられています。(塩田剛三著「合気道修行」より引用抜粋)

 

合気道を稽古されてる方なら理解していただけると思うのですが、おそらくそれ以外の

方は「なんだそれは?」とお思いになるのではないでしょうか?

その事の是非については、もうずいぶん前から議論されていて、今でも時々誤解を受ける事もあるのですが、その辺は、まず塩田先生の著書を読んでいただきたいと思います。

合気道修行者でも「和合の道」や「万有愛護を精神をもって~」の気持ちを抱きつつ、日々の稽古に取り組んでいるわけですが、実際のところ、その域にたどり着くのは、なかなか難しいわけです。(やはり人間ですから我が出ますので)

 

最近はyoutubeなどで、合気道の演武も気軽に見られるようになりました。

中には、離れた相手にも技を施している、達人がかった技を見る事もあります。

すごく胡散臭く(失礼!)見えるのですが、受け手の立場からすると、実はあれはしっかり技に掛かっているのです。(忖度されていることもありますが)

 

長年、合気道の稽古をしていると、取り(技を掛ける側)と受け(受け身を取る側)の間に独特な調和が生まれます。(私は「合わせ」呼んでいます)

取り側と受け側の合わせができると、技を施している中で、予定調和といいますか、「この場面はそのように動くところなのだ」という気持ちが生まれます。その結果、取り側は投げる形に、受け側は受け身を取る形になります。(これは、もちろんケガをしないようにという意味もあります)

これの繰り返しが「演武」という形で表現されています。普段はお互いの接触があってから行われるものなのですが、相当に熟練してくると、「離れていても、そういう感覚になる」ものなのです。それが結果として、離れていても技が掛かっている現象になっています。これを「気だ!」などと言ってしまうと、よくわからないものになってしまうのですが、実際に稽古していると、だんだんと理解できるようになっていきます。

ただ、とても感覚的な事なので、伝えようとすると表現が難しく「気」という言葉を用いたのではないかと思います。(他にもっと適当な言葉があるのでしょうが)

 

先ほど、取りと受けの「合わせ」とお話しましたが、これが面白いもので、取り受けのどちらか(多くは取り側に)我が出てくると、途端に上手く技が掛からなくなります。

多くの原因は「力み」が生じることによって起こるのですが、そこには気持ちの問題が現れてきます。

例えば「相手をこうしてやろう」とか「こういう風に技を掛けよう」と考えてから技に入ると、まず上手く掛かりません。ですが、多くの修行者の場合、これを自らの身体を変化させる事によって解決しようとします。それはそれで大事な事なんです。まず力みを取らない事には技は掛かりませんから。確かにそれは重要なのですが、その前に自分の心の中にある「こうしてやろう・ああしてやろう」という気持ちが無くならないと、相手はついてきてくれません。

合気道の稽古では、よく手首を掴む(持つ)ところから始まりますが、これには段階があります。今回はその辺の詳細は省きますが、持たれた手首はセンサーになっています。このセンサーはとても性能が良く、相手が力を入れようとすると敏感に反応して、それに抵抗しようとします。逆にそこを取って技を掛ける方法もあるのですが、今回お話している「合わせ」では、相手に抵抗しないでついてきてもらうというということが肝になります。

そのためには、まず自分の気の持ちようが大事です。そして、相手にそこに合わせてもらいます。もしくは、相手の気持ちに、こちらが合わせるということもあります。相手がどちらに行きたいかということを察知してから、行きたい方向に導いていくわけです。そうやって、お互いの気持ちが上手く調和できた時に、合気道の演武で表現されるような、円い捌きが生まれるのです。

これが熟達してくると、無意識のうちにこうなっていきます。また、始めは手首を持つところから始まりますが、どんどんと接点が狭くなって、ほんの触れたところで仕掛けたり、場合によっては、先に言った通り、離れていても技に掛かるようになります。これは、取り受けお互いの信頼関係ができていないと難しいと思います。

 

よく勘違いされるのが、「合気道」vs「格闘技」のどちらが強い?みたいな比較をなされることがありますが、上記の事を鑑みると、まず成立しないことになります。お互いの気持ちが合わせられないと、技として成り立ちませんし、気持ちが合えば合気道側の思いのままになるので、試合になりません。ですが、お互いが勝負を競い合う競技の中で、そういう事は、まずあり得ません。(よほど実力差が大きければあるかもしれませんが)

ただし、これは「合気道」として見た場合の話で、これが「合気柔術」だと話が変わってくると思います。(その辺りは経験がないので予測にしかなりませんが)

 

冒頭の剣(拳)もやる気も抜いてしまえれば最高ですね」というのは、相手とお互いに向き合った時の話だったのですが、相手が剣(拳)を抜く前に、気持ちを抜く(合わせる)ことができれば、その時点で、もうお終いなわけです。それが、塩田先生の言うところの「相手の敵愾心を放棄させ、仲良くなってしまうことです」ということかなぁと、ぼんやり考えています。

実際にそれができるかというと、現時点の自分には難しいですが、合気道の目指すところを自然と理解して、発信できるようになったところで、まずは良しとしようかなと思います。

 

塩田剛三の世界

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